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麦島城(むぎしまじょう)は、肥後国八代郡にあった安土桃山時代から江戸時代の城。 == 概要 == 1588年(天正16年)、肥後に入部した小西行長は、重臣小西行重に命じて球磨川の北岸に新しい八代城を築城させた。この城が現在麦島城跡と呼ばれている城である。なお、当時はまだ前川の開削が行われておらず、麦島城の北側は大きな入江となっており、中世以来の貿易港であり豊臣秀吉の直轄港であった徳淵津が設けられ、海上交通の要所であった。 麦島城は単なる小西氏の支城だけではなく、南蛮貿易の拠点、豊臣政権下における有力城郭として機能したと考えられる。 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでは城代小西行景が守る宇土城と連携し、来襲した加藤清正の軍と戦ったが、西軍が本戦で敗北したため、キリスト教徒であった城代末郷は城内の者達を救うために麦島城を開城し、本人は薩摩に移った。麦島城は戦後加藤氏の支城となり、1612年(慶長17年)城代加藤正方を派遣して支配した。加藤氏は肥後加藤領における城郭網再編成の一環として麦島城を改修し、規模の拡大を図った。その規模は、近年の本発掘調査によって、本丸東西部分で130m、本丸西側の二ノ丸を含めると東西400m、本丸西側に面する外堀の幅は50mを測る。 その後、大坂夏の陣後の元和の一国一城令に際しても、加藤領は本城・熊本城と支城八代城(現在の麦島城)の二城体制が特別に許された。 1619年(元和5年)、大地震によって城は倒壊したと伝えられている。しかし、麦島城時代に認められた一国二城体制は継続され、1621年(元和8年)に麦島城北側の松江の地に新しい八代城(別名松江城、現在の八代城跡)が竣工した。したがって、麦島城時代に一国二城体制が認められていなければ、現在の八代城跡は存在しなかった可能性がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「麦島城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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