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大野 まりな(おおの まりな、1972年4月5日〔 『日本音声製作者名鑑2007』、156頁、小学館、2007年、ISBN 978-4095263021〕 - )は、日本の女性声優、歌手。広島県呉市出身〔ショッカーO野の秘密基地へようこそ!! 第38回 〕〔。以前は青二プロダクション、アトリエピーチ、TABプロダクションに所属していた。現在はアトリエピーチの顧問。愛称はりなりん〔『VirtualIDOL 1997年2月号』 徳間書店インターメディア 1997年2月1日 p.81〕。 == 経歴 == 幼い頃から琴の修業を積むなど音楽性を育んでいくなかで「歌を歌いたい」という夢を強く抱くようになり、アイドルになることを決意。14歳で自ら様々なコンテストに応募するようになる〔『』 pp.96-100〕〔『まりなりなぁV3!〜precious stories〜』ライナーノーツ〕。1988年にはテレビ東京の『ミス・エクボ堂コンテスト』でグランプリとなり、同番組レギュラーを務めながら、アイドル雑誌の音楽祭などでも次々と最優秀賞を受賞。さらに、翌1989年10月、広島での『海と島の博覧会・美少女コンテスト』で優勝し、これにより本格的に芸能活動に入ることを決め、上京し芸能事務所に所属した〔『声優グランプリ vol.4』 p.109〕〔『すッぴん 1990年12月号』 英知出版 1990年12月1日 pp.107-110〕〔『アクションカメラ No.100』 ワニマガジン 1990年4月1日 p.28〕。しかし、度々デビューの話が潰れたことで移籍をし、乙女塾一期生松本裕美 、モモコクラブ桃組2902番片山裕美などとしてTVなどに出演しながら歌手を目指すこととなる。乙女塾の最中には大賀埜々・佐藤愛子とともにribbonとしてデビューする話もあったが、母子家庭であった大野と大賀は、親元を離れて一人で生活するのが困難であったため、涙を飲んであきらめざるを得なかった〔堀越学園への転校・入寮が前提であったため多額の費用がかかった。結局、ribbonは同乙女塾の永作博美、松野有里巳と佐藤愛子で結成された。〕〔「アケミとマリカのがっちゅみりみり放送局 第55回」35:00辺り〕。 当時の時代状況として、大野が活動を始めた1980年代後半はすでにアイドル歌謡が斜陽となっており、特に1990年代に入ると本格的にアイドル冬の時代を迎え歌手活動を始めることは困難になっていた。一方でヘアヌードが解禁されブームとなり、宮沢りえの様な絶大な人気を誇るアイドルがヘアヌード写真集を出して世を騒がせている最中であったこともあり、歌手活動に至るための「ステップとして」ヌードも含めたグラビア活動を行うことを決心する。家族へ迷惑がかかることから母親に土下座して許可を取り、1993年、野村誠一の撮影でスコラでデビュー、麻生ひろみとなった〔「アケミとマリカのがっちゅみりみり放送局 第55回」37:00辺り〕。 そうして数冊の写真集の出版や雑誌への連載を果たし、脇役での映画・ドラマ出演やラジオパーソナリティなども務めたものの、なかなか歌の仕事が来ることはなかった〔「麻生ひろみのこどもじゃないもん vol.5」 『BOYES No.11』 英知出版 1993年10月20日 pp.41-43〕〔。そんな中、青二プロダクションのマネージャー経由で「声優になれば歌が歌える」と聞いて声優となることを決心し、青二へ移り大野まりなと名を変える。当時はアイドル声優が流行り始めており、機会に恵まれたことでそれまで八年活動してもできなかった歌手の夢が三ヶ月後に早速叶えられることとなる〔『声優グランプリCD vol.1』所収の"Hang in there!"。〕〔〔アケミとマリカのがっちゅみりみり放送局 第55回 32:00辺り〕。 芸歴はあったものの声優としては全くの初心者であったが、アイドル時代から叩かれて育ってきた経験から、いくら怒られても平気で、九怒られて一誉めてもらうぐらいが一番いいと語るほど熱心に取り組み〔〔『』 pp.84-85,96-100〕、1995年にPC-FXのイメージキャラクターロルフィー役に抜擢され〔PC-FX MoeMoe -PhotoGraffy Vol.04 "Other Panfu"- 〕、アニメフリークFXで出演を始める〔『声優グランプリ vol.5』 1996年2月20日 pp.52-53〕〔『』 pp.76-85〕。年末にはオーディションに受かって『ラジオ・声優グランプリ』のメインパーソナリティを担当〔『アニラジグランプリ vol.1』 p.34〕〔『アニラジグランプリ vol.5』 pp.130-133,169-170〕、翌1996年には『エターナルメロディ』(レミット・マリエーナ役)で単体作品の主役級として初めて出演、さらに1997年にはオーディションで「リカちゃん電話」のリカちゃん役(2代目)に選ばれる〔「連載の大野まりなの当たってくだけろ!! 第二回 タカラ編」『グランプリJr.CHU vol.2』 pp.92-93〕〔『コンプティーク 1998年1月号』角川書店 1998年1月1日 p.127〕。これは情報量が多く早口でしゃべらなければならない応答を編集無しの一発録りで半年分(18本)一気に収録というもので、「これを30年もやっていた(初代の)杉山佳寿子さんはすごい」と語っている〔 『声優グランプリ vol.11』主婦の友社 1996年6月1日 pp.61-53〕〔アケミとマリカのがっちゅみりみり放送局 第55回 11m25s-13m45s.〕。しかし、1999年に初のアルバムを発売し、まさにこれからという時に、前述のヌードグラビア活動がゴシップ週刊誌などで取り上げられたため、スポンサーの意向で降板となった〔『週刊宝石』 1999年9月9日号、他東京スポーツなどで大きく取り扱われた。週刊宝石はこの後一年ほどで消滅。〕〔。 その後も、『ファーストKiss☆物語』に引き続き主役として出演するなどしたものの、新天地を開拓するため事務所を移籍し、アダルト作品も含めた美少女ゲームへの出演を開始する〔「原点回帰 大野まりな 美少女ゲームデビュー記念企画!!グラビア&インタビュー」『P-mate』 pp.140-141〕。初の美少女ゲーム作品は2002年発売の『妹でいこう!』の吉住麻由夏役で、同作では主題歌も担当、以後は美少女ゲームの主題歌に多く採用される萌えソング(電波ソング)を多く歌い始め、その代表的歌手の一人に数えられるようになる〔井手口彰典「欲望するコミュニティ──萌えソング試論」 『比較日本文化研究 10』 (2006)〕。 一般に声優は成人向け作品では顔を隠して別名義で活動することが多いが、大野は特に名義を使い分けることもなく顔出し有りで活動し、異色の経歴と併せて業界に独自の地歩を築いていった〔「18禁声優ナイショの座談会」『アニメーショングランプリ vol.1 』 pp.65-68〕。長じて自身が美少女ゲームの演技に苦労した経験を元に、それまで声優業界になかった美少女ゲームの演技を教える専門の講座の必要性を感じ、アトリエピーチの顧問に就き、自ら塾長として声優業の傍ら新人声優の演技指導を行うようになっている。担当は「芸能心得」で、単に声優の技術でなく、芸能人として生きる上での振る舞いや心構え、また「芸能界にある掟」を自身の経験を元に指導している〔〔桃塾紹介 | 桃塾 - アトリエピーチの美少女ゲーム声優養成講座 〕。声優は精神面が強くないと続けられないため、精神的に強くなること、夢を諦めないことを新人達に教えているという。特に美少女ゲームの声優は動きを出す技術が必要でそれがすごく難しい。これができなければ立派な声優にはなれず、美少女ゲームの声優こそ「真の声優」であると語っている。〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大野まりな」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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