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麻田藩(あさだはん)は、江戸時代、摂津国豊島郡・川辺郡などを領有した藩。藩庁は豊島郡麻田村(現在の大阪府豊中市蛍池)の麻田陣屋。藩主は外様大名の青木氏。初代藩主は青木一重。表高は元和元年(1615年)の立藩時には1万2千石で、元和3年(1617年)までに一重は旗本で弟の可直に2千石を分知したため1万石となった。 == 概略 == ===青木氏の出世=== 文久3年(1863年)の古文書によると、家臣数は110人近くだったという。初代藩主青木一重の父重直は美濃国出身で、美濃の守護大名土岐頼芸に仕え、後に斎藤道三・織田信長・豊臣秀吉の下へ仕えた。その子の一重も今川氏真・徳川家康・丹羽長秀・豊臣秀吉に従った。 一重は今川氏没落後は徳川家康に仕え功績を上げていたが三方ヶ原の戦いで家康から離れている。徳川家康にとって大きな敗戦をきした元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは本多太郎左衛門に従って出陣し高天神城の守備にあたった。しかし天正元年(1573年)に徳川氏の元を出奔し織田信長の家臣である丹羽長秀に仕えていた父重直を頼った。この戦いで弟の重経は敗走中の家康について武田勢を食い止めるために戦い討ち死にしたがこれが家康から距離をとる原因だったかもしれない。家康の記憶に青木重経の死は残っておりこれが最後まで秀吉側についた一重が麻田藩藩主に出世することに繋がったと考えられる。 織田信長の死後も父重直とともに信長の家臣である丹羽長秀についてその長秀の死後は羽柴秀吉の家臣となった。重直は御伽衆となり文禄2年(1593年)、摂津国豊島郡のうちで1400石を与えられ、のち菟原郡で360石を加増されたがこの頃に出家している。 慶長19年(1614年)大坂冬の陣で青木一重は豊臣方の和議の使者として駿府に下向したが、その帰途京都で拘禁され徳川方の捕虜となったことで旧主家康の軍門に下り、所領として摂津国豊島郡・菟原郡および備中国と伊予国にも所領を与えられ外様大名となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「麻田藩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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