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黄 克誠(こう こくせい、1902年10月1日 - 1986年12月28日)は、中華人民共和国の軍人。中国人民解放軍の大将。 後勤部部長、総参謀長等の要職を歴任したが、廬山会議で失脚。文化大革命後に復権した。 == 略歴 == 1925年、中国共産党入党。1926年、国民革命軍唐生智の部隊において、営(大隊)政治指導員、団(連隊)政治教官等に任じられる。 1928年、湘南起義中、永興起義の指導に参加し、永興紅色警衛団党代表兼参謀長となり、朱徳、陳毅に従い井岡山に向かった。その後、工農革命軍第4軍第12師第35団団長、第2路遊撃司令を経て、湘南に戻った。1930年から、中国工農紅軍第5軍の団、師政治委員、軍政治部主任、第3軍団代理政治部主任を歴任し、湘鄂贛蘇区の強化と中央ソビエト区の反「囲剿」に参加した。左傾冒険主義が優勢だった時期、都市部への進攻に反対したため、「粛反」拡大化等、数次に渡り「右傾」と名指しされ、解任処分を受けた。1932年春、贛州攻撃に反対していたが、国民党軍の突然の出撃により部隊を損失する危険がある中、果断に指揮所を移転させ、部隊を苦境から離脱せしめた。長征中、第3軍団の主要な戦役・戦闘に参加した。陕北到達後、第一方面軍政治部と紅軍総政治部組織部部長に任命。 日中戦争初期、八路軍第115師第344旅政治委員となり、徐海東の部隊と共に晋冀予辺地区を転戦し、晋東南反「九路囲攻」、町店等の戦闘を指揮した。1940年春、八路軍第2縦隊政治委員に任命され、主力を率いて予皖蘇と皖東北地区を南下し、八路軍第4縦隊政治委員、第5縦隊司令員兼政治委員に任命された。同年10月初め、黄橋作戦を行い、淮海盬阜地区に進軍した。この作戦で、北上した新四軍部隊と会合し、蘇北抗日根据地を創設し、華北と華中の抗日根据地の連絡を確立した。1941年から、新四軍第3師師長兼政治委員、蘇北軍区司令員兼政治委員、蘇北区党委員会書記を歴任。1945年6月、中共第7回中央候補委員に選出(1950年に中央委員)。 対日戦勝後の1945年9月14日、5万~10万の部隊を東北部に派遣し、戦略根拠地を確立することを中共中央に建議した。同年9月末、第3師主力を率いて東北部に進軍。11月中旬に国民党軍が北寧鉄道沿いの各地を占領すると、11月26日、部隊を大都市と交通路から離し、中小都市を占領して、農村地に根拠地を建設することを建議した。その後、西満軍区副政治委員、司令員、中共西満分局副書記、代理書記を歴任した。1946年3月、ソ連軍の撤退時、部隊を指揮して、四平、長春、チチハルを占領した。1947年から、東北民主連軍副司令員兼後勤司令員、政治委員,中共冀察熱遼分局書記兼軍区政治委員、東北野戦軍第2兵団政治委員を歴任。1949年1月、天津市委員会書記。 中華人民共和国建国後、中共湖南省委員会書記、湖南軍区司令員、政治委員。1952年11月、人民解放軍副総参謀長兼後勤部部長、政治委員に任命。1954年、国防部副部長を兼任。1955年、大将の階級を授与。1956年、中共第8回中央委員、中央書記処書記に選出。1958年10月、総参謀長に任命。1954年から中国共産党中央軍事委員会秘書長。 1959年の中共中央政治局拡大会議(廬山会議)において、大躍進政策と人民公社化に誤りがあると批評したため、彭徳懐等と共に「反党集団」と認定された。その後、職務を解任され、長期間の審査を受け、文化大革命中にも迫害された。 1977年12月、中共中央軍事委員会顧問。1978年、中共11回三中全会において中央委員となり、中央紀律検査委員会常務書記に選出された。1982年~1985年、中共中央紀律検査委員会第二書記。1986年12月28日、北京で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黄克誠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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