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黄 射(こう えき〔『後漢書』禰衡伝の注に「射音亦」とあるため「えき」と読む。『正史 三国志』ちくま学芸文庫版は「しゃ」の音を当てているが、誤りである。〕、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将、政治家。父は黄祖。 == 事跡 == 劉表配下。 建安4年(199年)当時、黄射は章陵太守の地位にあった。そのため黄祖・黄射は父子で同時期に、荊州内2郡の太守を務めていたことになる。 同年、廬江の劉勲は孫策に攻められ、西塞山中の流沂城に逃げ込むと、黄祖に救援を求めてきた。父は、黄射に水軍5千人を率いさせて援軍に差し向けた。しかし、到着前に劉勲が孫策に撃破され、曹操を頼って逃亡したため、黄射は退却した。孫策はそのまま夏口まで攻め寄せて黄祖軍を破り、黄祖の妻子である男女7人を捕虜とした。ただ、その後も黄射は活動しているため、捕虜とされた男女の中に黄射が含まれていた可能性は低い。 建安6年(201年)以降になると、黄射は数千の軍勢を率いて柴桑県を攻撃した〔『三国志』呉書9周瑜伝によれば、建安11年(206年)に黄祖配下の鄧龍が、やはり数千の軍勢で柴桑を攻撃したが、周瑜の反撃に遭って敗北し捕虜にされた、とある。黄射の柴桑攻撃がこれと同一であるかどうかは不明。〕が、孫権軍の徐盛に僅か200人の兵で迎撃された。黄射はこの戦いで大敗、二度と柴桑に攻め寄せることは無かった。 建安13年(208年)、ついに黄祖は孫権に攻め滅ぼされた。しかし黄射の生死・行方は不明である。 一方で、黄射は禰衡の友人であり、禰衡を父に紹介している。当初は父も禰衡を高く評価していたが、その不遜な言動に耐えられなくなり、ついにこれを処刑した。この時、黄射は処刑を止めさせようとしたが、その場に居合わせていなかったため間に合わなかった。黄祖も後悔し、禰衡を手厚く葬ったという。 なお、小説『三国志演義』には登場しない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黄射」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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