|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 黄 : [き] 【名詞】 1. yellow ・ 松 : [まつ] 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system)
黄 慕松(こう ぼしょう)は清末、中華民国の軍人・政治家。中国国民党に属し、蒙蔵委員会委員長などを歴任した。別名は承恩。 == 事跡 == === 民初の活動 === 汕頭嶺東同文学堂を経て、広東武備学堂第1期に入学する。卒業後日本に留学し、陸軍士官学校第6期工兵科などで学んだ。帰国後は広東黄埔陸軍小学で教官、監督を歴任している。 1911年(宣統3年)、辛亥革命が勃発すると、黄慕松は革命派の民軍で参謀長に任ぜられた。1912年(民国元年)3月、臨時大総統府軍諮府(後の参謀本部)第5局局長兼北伐軍大本営兵站局副局長となる。翌年1月、国防考察委員に任ぜられ、モンゴルや新疆で視察を行った。北京に戻ると陸地測量総局局長に任ぜられたが、まもなく再び日本に留学し、陸軍大学校で学ぶ。 第一次世界大戦終結後、軍事研究専員に任命され、欧州へ軍事視察に赴く。帰国後は、中俄(中ソ)界務公署参議兼中俄会議専門委員に任ぜられた。また、交通部路線審査会主任も兼任している。1925年(民国14年)5月、軍務善後委員会委員となる。その後、南方政府側に転じ、1927年(民国16年)、国民革命軍第3師師長に任ぜられた。北伐完了後、国民革命軍総司令部軍官団副団長に任ぜられた。1929年(民国18年)8月、国民政府軍事委員会参謀本部測量総局局長となる。翌年、陸軍大学代理校長に任ぜられた。この年には、航空分野や測量分野の国際会議において、中国代表として数度出席している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黄慕松」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|