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春申君(しゅんしんくん、? - 紀元前238年)は、中国戦国時代の楚の政治家。姓は黄、諱は歇(あつ)〔「歇」のアツという読みは『史記九 列伝二』(明治書院 新釈漢文大系、ISBN 4625570891)より。『漢語林』(大修館書店、ISBN 4-469-03116-X)によればケツ(漢音)・ケチ(呉音)。他にもカツ 、コチ(呉音)という発音も見かけられるが、これらの用例等は不明。〕。戦国四君の一人。考烈王を擁立し、国勢の傾いた楚を立て直した。 ==略歴== ===秦の人質=== 黄歇(こうあつ)が国政に最初に登場したのが紀元前274年、頃襄王の命を受けて秦に使いに行った時である。この頃、秦は韓・魏を従えて、楚を攻めようとしていた。黄歇は秦の昭襄王に上書し「強国である秦と楚が争っても互いに傷つき、弱い韓・魏を利するだけ」と説いた。昭襄王はこの理を認め楚と和平することにした。翌年、楚は和平の証として太子の完(後の考烈王)を秦に人質として入れることになり、黄歇はその侍従として秦に入った。 紀元前264年、楚の国元で頃襄王が病に倒れた。このままでは国外にいる完を押しのけて公子の誰かが王となってしまう可能性が強いと、黄歇は秦の宰相・范雎に説いて完を帰国させるように願った。范雎からこれを聞いた昭襄王はまず黄歇を見舞いに返して様子を見ることにした。ここで黄歇は完を密かに楚へと帰国させ、自らは残ることとした。事が露見した後、昭襄王は怒って黄歇を殺そうとしたが、范雎のとりなしで楚へと帰国することが出来た。その3ヵ月後に完が即位して楚王となった。 黄歇はこの功績で考烈王より令尹に任じられ、淮北(淮河の北)の12県を貰い、春申君と号した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「春申君」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Lord Chunshen 」があります。 スポンサード リンク
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