|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 黄 : [き] 【名詞】 1. yellow ・ 石 : [こく, いし] 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) ・ 石山 : [いしやま] (n) a stony mountain ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 山城 : [やまじろ] (n) mountain castle ・ 城 : [しろ] 【名詞】 1. castle ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight ・ 戦い : [たたかい] 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict
黄石山城の戦いとは、慶長の役において朝鮮軍が守る黄石山城を日本軍が攻略した戦い。 == 概要 == 日本軍の右軍先鋒加藤清正は7月25日西生浦を発し梁山に至り主将毛利秀元(吉川広家、安国寺恵瓊これに属す)及び黒田長政、鍋島直茂父子、池田秀氏、中川秀成、長宗我部元親父子等と会し、ここに全軍の集中を終え、霊山を経て昌寧に到る。此地の東方約1里に火王山城があり郭再祐等がここを守っていたが、日本軍はこれを無視して前進する。 右軍は昌寧より西に折れ草渓、陜川を経て安陰に向かう。すると所在の朝鮮軍は皆逃散する。日本軍が安陰に至ったとき黄石山城がただ独り堅守して屈せず。 黄石山城は安陰の西北約2里に在り四方斗絶し険峻甚だしく慶尚、全羅2道の咽喉を扼していた。安陰縣監郭シュンが入ってこれを守り、金海府使白士霖、前咸陽郡守趙宗道は兵を率い来てこれを助け安陰、居昌、咸陽3郡縣の軍民数千人を募り、城の各所に分置する。西南二方面は郭シュン自らこれに当り、東北二方面は白士霖が指揮し、趙宗道は遊軍となる。白士霖は武官の出身であったため城兵はこれを頼みとした。 8月中旬(日子未詳、蓋し14、5日頃)日本軍は諸隊を部署し加藤清正は南面より、鍋島直茂父子は西面より、黒田長政等は東面よりこれを囲み(其の他の区分未詳)、竹束盾を連ね、柵を結って城に迫り、16日(明暦17日)の夜、月明に乗じて総攻撃を開始する。このとき白士霖は逃走した。郭シュンは持場を離れず戦ったが、加藤の士森本義太夫等が南門に先登し、神田対馬が郭シュンを打ち取った。郭シュンの子、郭履常、郭履厚及び趙宗道等は皆ここに戦死し、日本軍は350餘の首級を挙げ黄石山城は陥落した。さらに諸隊は追撃し、山谷の間に斬殺するもの無数。翌日勝利を豊臣秀吉に報ず。 右軍はその後、六十嶺を越え鎮安を経て全州に至り左軍と会合し、両軍ここに駐まること数日、24日全州城を破毀する。この頃、豊臣秀吉の使(姓名未詳)が来て両軍の報告を聴取する。ここにおいて宇喜多秀家、毛利秀元以下の諸将は会議して今後の方略を定め、毛利秀元(吉川広家等を除く)加藤清正、黒田長政、の3隊約4万人は目付の太田一吉、竹中重利の2人がこれを監し北上して公州方面に進み長宗我部元親父子、鍋島直茂父子、吉川広家、池田秀氏、中川秀成等は左軍に属して忠清、全羅2道の討伐に従事する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黄石山城の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|