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黄 蓋(こう がい、? - 建安19年(215年)?)は、中国後漢末期の武将。字を公覆(こうふく)、荊州零陵郡の人。孫堅・孫策・孫権に仕えた宿将である。子は黄柄。 == 人物== === 経歴 === 『呉書』によると、祖先が南陽太守の黄子廉(名は黄守亮、字は子廉、黄蓋の叔伯、黄瓊の長子〔『中華民族黄姓總世系』〕)という人物で、その子孫は各地に散らばった。黄蓋の一族は祖父(名は黄瓚、字は世蕃、黄守亮の父・黄瓊の弟。黄蓋の父は黄瓚の長子、名は黄安、字は孚仁〔『中華民族黄姓總世系』〕)の時代に零陵へ移住してきたという。若い頃に父が亡くなり、貧しい生活をしていたが、常に大志を抱き、上表文の書き方や兵法の勉強に勤しんでいた。 郡の役人になった後、孝廉に推挙された。三公から招聘を受けたが、孫堅が挙兵するとこれに従い、荊州南部の反乱や董卓討伐に従軍して活躍し、別部司馬に任命された。 孫堅の死後は孫策に仕え、孫策の江東制覇に従った。孫策が劉表と黄祖の征伐報告をした時の上奏に、呂範・程普・孫権・韓当と共に黄蓋の名もある(「孫破虜討逆伝」が引く『呉録』)。孫策が早世すると、跡を継いだ孫権にも仕えて若い主君を支えた。 黄蓋は自ら甲冑をつけ、刀剣を振るって各地の反乱を鎮圧し、城を攻略した。統治が困難な地域には黄蓋が長官として任じられ、石城県・春穀県・尋陽県など9つの県に赴任し、丹陽の都尉にまでなった。法令に厳格な処罰を行ないつつも、強きを抑えて弱きを助ける統治を行ったため、どの地も無事に平定された。また、土着民族たる山越までもが信服し、人々は平穏に暮らすことができた。 風貌に威厳があり、兵卒に優しく接したため、軍を率いた時には兵士達は命をふるって戦った。 建安12年(208年)、曹操が江南に進軍を開始し赤壁の戦いが始まると、黄蓋は周瑜の指揮下で従軍した。曹操軍の艦船を焼き討ちすることを進言し、偽りの投降を用いた火攻めで曹操軍を攻め立て、曹操軍の艦船と岸辺の軍営を焼き払った。この火攻めの際、黄蓋は流れ矢に当たって長江に落ちてしまい、救い上げられたものの、黄蓋とわからなかったために、負傷したまま厠に放置されてしまった。しかし、同僚の韓当が見つけ手当てさせたため、九死に一生を得たという(「周瑜伝」、「韓当伝」)。この功績で、武鋒中郎将に任命された。 武陵蛮が反乱を起こすと、黄蓋が武陵太守に任命され鎮圧の任にあたることになった。郡の兵士は500人程であったが、賊軍を城門に誘い込んで撃退し反乱を鎮圧した。この時、首謀者以外の者の罪は問わなかった。反乱を鎮めると、これまで益州に服していた巴・醴・由・誕の部族も誼を通じてくるようになった。 また、山越の反乱者に長沙郡益陽県を攻められるとそれも平定し、偏将軍に昇進した。 その後、黄蓋は病に伏せりそのまま病没した。黄蓋には決断力があり、事務を長期間滞らせることがなかったため、孫権領内の人々は彼を偲んだという。孫権は彼の子に関内侯の爵位を授けた。『呉書』によると、肖像画を描いて季節ごとにお祭をした人々もいたという。 没年は不明だが、死後その配下の軍勢は、同時期に亡くなった孫瑜の軍と共に、孫皎が指揮をしたとあるため(「宗室伝」)、孫瑜が亡くなった215年の時点では、黄蓋は既に死去していたことが確認できる。 『安南志略』巻7には、南海出身で同姓同名の黄蓋が呉の日南太守となったが、貪欲であったため追放されたという記述がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黄蓋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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