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黄 錦周(ファン・クムジュ、、1927年 - 2013年)は、韓国生まれの元・慰安婦。 == 略歴 == 韓国挺身隊問題対策協議会『証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』での本人証言に基づく。 * 1922年扶餅生まれ。家は由緒正しいソンビだが経済的には苦しい〔韓国挺身隊問題対策協議会 1993〕 * 1934年(13歳)父が病気になり薬代の借金のため咸興の催さんの養女に(実際は女中)〔韓国挺身隊問題対策協議会 1993〕 * 1936年(15歳)扱いの荒さに音を上げ、催さんの本妻の家に移動、借金が増える、学校に行かせて貰う〔韓国挺身隊問題対策協議会 1993〕 * 1941年(20歳)村の班長が「1家で1人は日本の工場で働かねばいけない」と言われ養家の他の子供の身代わりになって志願。3年間の労働で借金が返せると期待。他の人と一緒に列車とトラックでついた場所(駅名は吉林)は日本軍のテントで3日に1回将校の部屋に呼ばれ強姦された〔韓国挺身隊問題対策協議会 1993〕 * 1941年(半月後)慰安所に移動、木造の簡単な小屋数棟で看板はない。食事も軍人と混じってとり完全な日本軍の支配下にある〔韓国挺身隊問題対策協議会 1993〕 * (?後)トラックと船で近傍の慰安所に移動。より厳しい状況、主に海軍軍人がきた〔韓国挺身隊問題対策協議会 1993〕 * (8~9ヶ月後)移動する軍人について吉林の慰安所に戻る〔韓国挺身隊問題対策協議会 1993〕 * 1945年8月(24歳)終戦、将校はおらず自由にしろというメモだけ。下腹部が腫れ膿が出て歩けない同僚を残し歩いて兵舎の外へ。朝鮮に帰ったのは12月〔韓国挺身隊問題対策協議会 1993〕 * 2013年1月3日〔日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワークホームページより〕 死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黄錦周」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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