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西遼(せいりょう、拼音:Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。 中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている〔藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁〕。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」〔「強力な契丹」〔杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁〕の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない〔''The Empire of the Qara Khitai in Eurasian History: Between China and the Islamic World'', 216-217頁〕。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている〔伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、335頁〕。 西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」〔島田『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』、28-32頁〕、「ハンの中のハン」〔ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、331頁〕〔バルトリド『中央アジア史概説』、62頁〕、「大いなるハン」〔、「勇敢なハン」〔井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112頁〕などの意味)の称号を名乗り〔〔〔小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書, 岩波書店, 1960年)、86-88頁〕、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ〔。 首都はグズオルド〔ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、144頁〕(虎思斡耳朶、Ghuzz Orda /غزباليغ Ghuzz-Balïγ クズオルド〔宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水歴史全書, 刀水書房, 2002年9月)、64頁〕、フスオルド〔。契丹語で「堅固なオルド」の意〔。 == 歴史 == 西遼は自国の記録を残しておらず、これらの情報は中国史料とイスラーム世界の史料によるものである〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西遼」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kara-Khitan Khanate 」があります。 スポンサード リンク
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