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黒岩 保美(くろいわ やすよし、1921年11月14日 - 1998年5月8日)は日本の鉄道イラストレーター、写真家、デザイナー、編集者、元日本国有鉄道(国鉄)職員である。東京都中央区日本橋富沢町出身。 == 略歴 == 1935年頃、東京学生鉄道趣味連盟に参加して、鉄道関係の交友を拡ける。太平洋戦争中は、何ヵ所かの軍需工場への徵用の後、海軍の嘱託となって横須賀に勤務。1947年2月24日、星晃の計らいで運輸省鉄道総局嘱託となる〔星晃「車両絵の達人、そしてユニークな鉄道画家 黒岩保美君の思い出」『鉄道ファン』1998年8月号、抜粋加筆稿が「車両絵の達人」として『図説 鉄道のプロフェッショナル』(学習研究社、2008年) ISBN 978-4-05-605271-8 に収録されている。〕。連合国軍専用客車の外観と改造した車内の構造を立体的にカラー絵として残す作業に取り掛かった。当時はモノ不足でカラーフィルムなど望める時期ではなかったため、日本画の素養のある黒岩に依頼された〔河原匡喜『連合軍専用列車の時代 占領下の鉄道史探索』(光人社、2000年) ISBN 4-7698-0954-9 第三章 第三鉄道輸送司令部 3 二つのRTO p100 - p105 を参照。〕。 その後1949年はじめに運輸省鉄道総局職員に採用となり〔、車輌設計部門の旅客車担当となり、内装の色使いや各種の標記類、殊に1950年代以降の特急のヘッドマーク・ヘッドサインのほとんどを手がける。1969年、等級制の廃止とそれに伴うグリーン車の設定では、グリーン車のシンボルマークをデザインし、功労賞を受ける。 1961年、鉄道友の会の会報の拡大版としてスタートした『鉄道ファン』の編集に関与、1963年には三代目編集長に就任。1969年10月号(100号)をもって、四代目編集長宮田寛之に引き継ぐ。その間、蒸気機関車専門の不定期刊行誌『SL』を創刊。 1972年の鉄道100周年を機に編纂された『100年の国鉄車輌』では国鉄部内の編集主幹。1977年春、国鉄を定年退職、同時に株式会社エリエイ/プレス・アイゼンバーンに入社。その直前の1976年10月、プレス・アイゼンバーン刊の櫻井寛写真集『凍煙』を編集。 1978年、『SL』の理念を引き継ぐ形で『レイル』を創刊。1980年まで月刊、以降は不定期刊。 プレス・アイゼンバーンでは、1977年10月に杵屋栄二写真集『汽車・電車』、1978年10月に『タイ国の蒸気機関車』、1981年3月に『草軽電気鉄道』、1982年に『形式シリーズ D51』第2巻と第3巻、1984年12月に『寿都鉄道』、1987年7月に『箱根越え』を担当した。 その他、講談社や小学館などでも鉄道関係図書のイラストを担当。また、1985年に登場した新幹線100系電車の食堂車の出入り階段付近や妻壁にあった歴代東海道・山陽本線特急のエッチングの原画も手がけている〔『名列車列伝シリーズ13 新幹線ひかり&新幹線100系電車』(イカロス出版、2000年) ISBN 4-87149-296-6 岩成政和「時速200kmのレストランものがたり」 p66 - p69〕。1997年度鉄道友の会シルバー賞受賞(ちなみに鉄道友の会会章とブルーリボン賞・ローレル賞徽章は黒岩のデザイン)。 1997年秋の個展のあと、11月18日東京医科大学病院に入院。1998年5月8日午後10時28分、急性骨髄性白血病により逝去。享年75。没後、遺志によりヨーク鉄道博物館に英国製蒸気機関車を描いた絵画数点が寄贈された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒岩保美」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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