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黒崎 久志(くろさき ひさし、1968年5月8日 - )は、栃木県上都賀郡粟野町(現:鹿沼市)出身の元サッカー日本代表選手。ポジションはFW、MF。1992年から1999年までの登録名は黒崎 比差支(読みは同じ)。 指導者としては、アルビレックス新潟監督、大宮アルディージャヘッドコーチを歴任。 == 来歴 == === 現役時代 === 宇都宮学園高等学校(現:文星芸大付高)時代から将来を嘱望され、辛口評論家として知られるセルジオ越後からも「将来日本代表入りする選手」と太鼓判を押されていた。全国高等学校サッカー選手権大会にも2度出場し、2年生だった1986年1月の第64回大会では1学年先輩の小泉淳嗣とともに準々決勝で3連覇を目指していた帝京高校を下してベスト4に進出し(準決勝で江尻篤彦や真田雅則のいた清水商に敗退)、黒崎は5得点で大会得点王となった。3年生だった翌1987年1月の第65回大会では1学年下にDF根岸誠一がいて、室蘭大谷高校との準々決勝ではPK戦の途中でテレビ中継が終わっても、なかなか結果がテロップで流れなかったPK戦史上に残る激闘の末、14-15で敗れた。高校時代のクラスメートの話によると、授業中ほとんど昼寝をしていたにもかかわらず成績は良かったとのこと。 高校卒業後、1987年に日本サッカーリーグ(JSL)1部所属の本田技研工業サッカー部(現:Honda FC)に入団。本田技研がJリーグへの不参加を表明した1992年に、慕っていた監督の宮本征勝や同学年の長谷川祥之、1年後輩の本田泰人や黒崎を追って本田技研に入社していた根岸らとともに鹿島アントラーズに移籍〔鹿島の母体はJSL2部の住友金属工業蹴球団で、Jリーグで見劣りしないための戦力強化を必要としていたため、黒崎らの本田技研組は歓迎され、日本人選手の中核となった。ただし根岸は1993年のJリーグ開幕前に退団している。〕。この際、登録名を本名の「黒崎 久志」から「黒崎 比差支」に改め、2000年に本名に戻すまでこの名前を使用した。長身2トップを組んだ長谷川祥之とともに、日本人エースとして活躍し、Jリーグ黎明期の鹿島を牽引した。この頃には日本代表にも選出されたが、代表では同じ長身FWでタイプが重なる高木琢也との争いに敗れ、目立った実績は残せなかった。ただ、1995年に香港で行われたダイナスティカップでは、大会不参加の三浦知良に代わり招集され、得点王に輝く大活躍で日本の優勝に貢献している。 鹿島には6年間にわたって所属したが、柳沢敦の台頭もあって徐々に出番が減り、1998年に京都パープルサンガへ移籍。13得点の活躍を見せた。翌1999年は出場機会が減少。2000年にはヴィッセル神戸に移籍したが、ここではさしたる成績を残せず、2001年にアルビレックス新潟へ移籍。新潟ではチームトップの21得点を挙げ、健在振りを見せた。2002年からは大宮アルディージャに移籍し、2003年シーズン終了後に現役引退。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒崎久志」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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