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黒川氏(くろかわし)は、日本の氏族。起源が異なるいくつかの系統がある。 #陸奥黒川氏。河内源氏足利氏流斯波一門最上氏一族。 #越後黒川氏。坂東平氏三浦氏流和田氏一族。揚北衆。 #信濃黒川氏。木曾氏流。信濃国木曾谷の国人。 #伊予黒川氏。越智氏河野氏一族。 == 陸奥黒川氏 == 源姓(清和源氏)足利氏庶流斯波一門・大崎氏分家の最上氏一族で、陸奥国黒川郡の国人領主。家紋は足利氏と同じ「二つ引両」及び「五三の桐」。 黒川氏初代・氏直の出自については、以下の三説がある。 #最上氏初代・兼頼(1315年-1379年)の子。没年月日不詳。(「報恩寺旧蔵黒川氏系図」) #最上氏第2代・直家の子。応永26年(1419年)6月28日死去。子に満氏。(『寛政重修諸家譜』巻80所収「最上氏系譜」) #最上氏第3代・満直の子。文明3年(1471年)6月18日死去。(「水沢大衡氏系図」) 「最上氏系譜」と「水沢大衡氏系図」とでは、氏直の没年に半世紀近い差があり、また黒川氏歴代の位牌には氏直の物が無い代わりに、文明4年(1472年)8月15日死去の景氏(6代景氏とは別人。「最上氏系譜」に見える満氏か)の物が存在するなど、かなりの混乱が見られる。 斯波氏の庶流筋であることから、長禄年間には将軍より直接に古河公方・足利成氏討伐を命じる御内書を下されるなど、大崎氏麾下の国人領主として重きをなした。16世紀初期に伊達稙宗が勢力を伸張すると、伊達氏庶流の飯坂家から景氏が養子として入り伊達氏に服属したものの、景氏の子・稙国以降、稙家・晴氏(月舟斎)と三代にわたって将軍より偏諱を賜っている。晴氏は伊達晴宗の三男・留守政景に娘を嫁がせる一方で、大崎義直の子・義康を養子に迎えるなど、大崎氏・伊達氏の双方に配慮を欠かさなかった。 しかし伊達政宗の代に伊達一門と斯波一門の対立が深刻化すると、晴氏は大崎合戦において伊達氏より離反し、中新田城を攻めていた伊達軍を潰走させた。またこの時、婿の政景を救うために和睦を斡旋した。その2年後、黒川氏は豊臣秀吉による小田原征伐への参陣命令を無視したために、奥州仕置において改易され、旧黒川領は政宗の支配下に帰することとなった。政宗は旧年の報復のために晴氏を殺そうとしたが、政景の嘆願もあって助命され、晴氏は政景の保護下にて余生を過ごした。 晴氏の後継・義康はのちに政宗に仕え、一家の家格に列して宮城郡西田中(現:仙台市泉区西田中)で150石を知行したが、寛永3年(1626年)に義康の子・季氏が死去して無嗣断絶となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒川氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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