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黒歯常之 : ミニ英和和英辞書
黒歯常之[こくし じょうし]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くろ]
 【名詞】 1. (1) black 2. (2) dark 
: [は]
 【名詞】 1. tooth 
: [とわ, じょう]
  1. (adj-na,n) eternity 2. perpetuity 3. immortality
: [これ]
 (int,n) (uk) this

黒歯常之 : ウィキペディア日本語版
黒歯常之[こくし じょうし]

黒歯 常之(こくし じょうし、? - 689年永昌元年)11月26日)は、百済の将軍。百済滅亡後には百済復興を掲げて反唐運動を率いた将軍の一人である。だが、復興の果たせないことを悟り、に投降し、唐の将軍として主に対突厥戦線で活躍した。
==生涯==

===百済の将軍として===
百済の達率(二品官)兼風達郡将であった。660年顕慶5年)8月に国王の義慈王が唐に降伏し滅亡すると、唐の左武衛大将軍蘇定方に部隊を率いて降伏した。
しかし、降伏後、唐軍の軍紀は乱れ、百済の遺民の壮丁、婦女子が殺戮され、強姦されるのを黙視できなくなる。黒歯常之は、旧来指揮していた部隊を糾合して、任存山城において唐に叛旗を翻した。それをみて百済の旧軍兵士が参集し、その数は瞬く間に3万を数えるまでになった。
唐の将軍、蘇定方は兵を派遣して任存城を包囲した。黒歯常之は配下の軍兵の中から精鋭を選び、包囲する唐軍に果敢に奇襲を試みて、唐の攻囲軍を打ち破った。唐軍は大敗を喫して逃亡した。黒歯軍は逃げる唐軍を追撃し、200余の城塞を攻略してその領域を回復した。
蘇定方はこの事態を把握して、自ら出馬して黒歯常之と相対した。蘇定方はこの時期の唐を代表する名将であり、用兵は巧みであったが、黒歯常之を打ち破ることはできなかった。しかし、蘇定方の前線指揮の結果、唐の軍紀は回復し、黒歯常之が回復した城塞も次第に攻略されていった。
黒歯常之は別将の沙宅相如とともに険峻な要害の地によって抵抗を続け、同じく唐に抵抗する百済の将軍、扶余福信(鬼室福信)の拠る周留城に軍を率いて合流した。
百済復興を目指す旧百済軍は指導者を求めて、663年、倭国日本国)に人質として派遣されていた百済の王子、扶余豊(扶余豊璋)の帰国を倭国に求めた。倭国はそれに応えて、兵5000余と軍事顧問らを派遣した。だが扶余豊(扶余豊璋)には王の資質はなく、倭国で安穏とした豊かな生活をすごしてきたため、戦場での非常事態の篭城戦という緊迫した状況に馴染めなかった。
また、倭国に人質として派遣されたことがそもそも百済国内での政争に敗れた結果であったため、百済の遺民や復興軍の将帥たちのなかにも扶余豊(扶余豊璋)に対する侮蔑があり、扶余豊(扶余豊璋)自身の被害者意識があったことなどから、百済復興運動は巧く機能しなかった。
扶余豊(扶余豊璋)は険峻な周留城を嫌い、平坦で景色の良い避城への移動を推し進めるなど、戦時とは思えない感覚が黒歯常之や扶余福信(鬼室福信)に違和感を持たせた。倭軍の秦田来津(はたのたくつ)ら軍事顧問は、避城への移動が軍事的に敵に近く、なお、防ぐ障壁とてない平地では兵数に劣る復興軍に勝ち目のないことを主張した。
黒歯常之もそれに同調したが、扶余福信(鬼室福信)は、扶余豊(扶余豊璋)を慮ってそれに与しなかった。その結果、扶余豊(扶余豊璋)は避城への移動を強行した。しかし、唐軍が近づくと慌てて周留城へ撤退したため、少なからぬ兵を失う結果となった。
この頃から、百済復興軍のなかで、指導部である扶余福信(鬼室福信)や扶余豊(扶余豊璋)に対する批判がおこった。そうして二人は互いに相手を毛嫌いするようになり、ついに扶余福信(鬼室福信)が扶余豊(扶余豊璋)によって処刑される結果となった。
その後、百済復興支援のために派遣された倭軍(日本軍)の出撃の報が知らされると、扶余豊(扶余豊璋)は周留城を捨てて、倭軍と合流すると称して城を抜け出した。倭軍は扶余豊(扶余豊璋)が周留城にいると考え、その救援をはかり、白村江の戦いで無謀ともいえる敵中突破作戦を遂行するが、唐水軍の前に敗退した。
しかし、それ以前に扶余豊(扶余豊璋)は逃亡していた。百済復興は、こうして敢え無く失敗に終わった。黒歯常之は周留城を防衛していたが、百済復興運動の前途を悟り、唐からの降伏勧告に応じ、百済復興運動から脱落した。黒歯常之の投降に対して唐は、その軍事的才能を高く評価し、将軍として彼を招いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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