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黒江透修 : ミニ英和和英辞書
黒江透修[くろえ ゆきのぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くろ]
 【名詞】 1. (1) black 2. (2) dark 
: [こう, え, ごう]
 【名詞】 1. inlet 2. bay 

黒江透修 : ウィキペディア日本語版
黒江透修[くろえ ゆきのぶ]

黒江 透修(くろえ ゆきのぶ、1938年12月12日 - )は、鹿児島県出身のプロ野球選手内野手)、野球指導者、解説者評論家。旧名は幸弘。
愛称は「豆タンク」(165cmと小柄で、なおかつ太っていたのが由来)。
== 経歴 ==
鹿児島高校から杵島炭鉱、日炭高松を経て立正佼成会に所属。都市対抗野球大会に4回出場し、1964年の大会では熊谷組の補強選手として8打席連続安打の新記録を達成し、チームの準決勝進出の立役者となる。立正佼成会のチームメートに小川健太郎金博昭らがいた。
同年8月、読売ジャイアンツに入団。165cmと小柄ながら堅実な守備で、土井正三とともにV9巨人の内野の要となった。にはイースタンリーグの首位打者を獲得。一軍でもに頭角をあらわし、首位を争う対中日戦で小川健太郎から三塁打を放って監督の川上哲治から信頼を得る。には129試合に出場して打率.278を残し、レギュラーに定着した。には遊撃手でベストナインに選出される。以降、まで毎年ほぼフル出場、打率.270前後とコンスタントな成績を残す。しかしは河埜和正に遊撃手を明け渡すようになり、同年限りで現役引退。
子供のころ右手に大怪我を負い、その影響で送球がクセ球になる(ややシュート気味の変化球のようになり一塁手をはじめ他の野手がキャッチしにくくなる)ことを守備面で大きなネックとしていた。当時投手コーチだった藤田元司と座布団にボールをぶつけるという特訓でクセのない送球を出来るようになった(月刊ジャイアンツに連載されていた、過去の選手をテーマとした漫画で黒江が取り上げられた際に描かれていた)。現役時代の1967年には、鹿児島県人が多い大相撲の井筒部屋で自主トレを行ったことがある。「週刊ベースボール」2011年1月31日号(懐かしのプロ野球自主トレ企画)では、当時現役だった鶴ヶ嶺(後の井筒親方)の下、黒江がテッポウをしている写真が掲載された。
遠征中の宿舎においては、土井正三とともに常に長嶋茂雄とは同部屋であったので、夜中でも素振りに付き合わされた。それは土井と黒江が畳を頭の上にのせ、畳に沿って長嶋が素振りをするものである。しかし長嶋はスイングに納得せず、畳を担いだまま2時間、中腰のまま部屋の中を走り回ったという。
引退後は、指導者として主に名参謀として活躍し、長嶋茂雄、近藤貞雄広岡達朗森祇晶江尻亮王貞治渡辺久信を支えた。コーチ歴は巨人一軍守備・走塁コーチ補佐、 - 一軍守備・走塁コーチを務めたが、退任する際に長嶋から「片腕としてよくやってくれたけど、球団の考えなんだ。申し訳ないが辞めてくれ」と言われ。黒江は涙ながらに長嶋に「片腕の黒江を切るなら私も辞めますと、なぜ言ってくれなかったのですかと訴えました。」と言ったと言う〔巨人軍 あの日、あの時、あの事件打たれて「ホラ見てみい」士気下げた長嶋監督のベンチワーク 日刊ゲンダイ 2015年2月11日〕 。からまでは日本テレビラジオ日本解説者・日刊スポーツ評論家、からまでは中日一軍総合コーチ、は西武ライオンズは二軍総合コーチ、は一軍作戦コーチ(ヘッド格)、からまでテレビ東京文化放送東京中日スポーツ評論家、監督の森の要請でに西武のヘッドコーチに就任し〔巨人軍 あの日、あの時、あの事件巨人森監督誕生なら打撃コーチは張本勲だった 日刊ゲンダイ 2015年6月10日〕 、からまでは打撃コーチ兼任、は二軍監督を務め同年森と共に辞任。はテレビ朝日・文化放送・東京中日スポーツ評論家、は千葉ロッテマリーンズの二軍監督。からまでは福岡ダイエーホークス一軍助監督兼打撃コーチ、は横浜ベイスターズヘッドコーチ、翌は打撃コーチを兼任したが、成績不振(最下位)で解任された森の後を受けてシーズン終了後まで監督代行。からまで東京中日スポーツ・J SPORTS(主に西武、ロッテの本拠地ゲームの試合)・NHK-BS1東海ラジオ評論家、は球団主導の人事で埼玉西武の一軍ヘッドコーチに就任するも監督の渡辺久信がミスを責めない伸び伸び野球を推進しており根本的にチーム方針と合わなかった為、チームはリーグ優勝・日本一になったが同年限りで辞任〔西武黒江ヘッド辞任、チーム方針と合わず 日刊スポーツ 2008年11月10日〕 。指導者としては4球団(巨人、中日、西武、ダイエー)でリーグ優勝、2球団(西武、ダイエー)で日本一に貢献している。からはJ SPORTS(ロッテ戦、同年のみ)・東京中日スポーツの解説者・評論家を務めている。
2009年4月から全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ)の新理事長に就任し2年間務め、3月18日に再任された〔黒江理事長を再任=野球振興会 〕が、その2か月後の5月16日の理事会で森徹に理事長職を譲った〔森徹氏が新理事長=プロ野球OBクラブ - 時事通信、2011年5月16日〕。ただし黒江本人は「事実無根で理不尽な理由」により理事長を解任されたと主張しており、2011年12月には同会の元事務局長らに対する損害賠償請求訴訟を起こしている〔こちらも内紛ぼっ発!?元巨人・黒江氏が解任問題で提訴 - スポーツニッポン・2011年12月20日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「黒江透修」の詳細全文を読む




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