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黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年3月28日 - 1982年2月6日)は、茨城県常陸太田市(旧久慈郡世矢村)出身の実業家。教育者、環境運動家。元衆議院議員。北海道製酪販売組合連合会(現在の雪印メグミルク)、北海道酪農義塾(後の酪農学園大学)の設立者。日本酪農の父と呼ばれる。 == 生涯 == 1885年、茨城県常陸太田市(旧久慈郡世矢村)で生まれるが、家は貧しかった。尋常小学校卒業後、水戸学の影響の強い近くの漢学塾に通う。 神田数学院という私塾で給仕生として生活しながら。当時、1901年12月、田中正造が足尾鉱毒事件について直訴したことを新聞報道で知り、田中の下宿を訪れる。以後、田中の秘書として働き、小田中とも呼ばれる。鉱毒反対運動参加時に、自身とは反対派の家に説得に行ったところ、家宅侵入罪で逮捕されるが、田中が今村力三郎という有力な弁護士をつけてくれたおかげで無罪となり、その後も田中の秘書として働く。未決囚として収監中に田中の知人の潮田千勢子から差し入れられた聖書を読み、感化を受ける。後の1909年には洗礼を受けた。その後、田中が学問を修めるように説得。当時籍のあった旧制京北中学校に復学。田中の資金で勉学を続け、卒業する。 卒業直前、母が死去。幼い弟妹を養うために働くことにし、卒業直後の1905年、北海道に渡り、宇都宮仙太郎牧場の牧夫となる。兵役を終えた後の1909年、宇都宮から独立する。 関東大震災直後に、援助物質を非課税化するために乳製品の輸入が自由化されると、牛乳が買い叩かれるようになったため、宇都宮仙太郎を含む他の酪農家とともに1925年、北海道製酪販売組合を設立。専務となる。その後組合はブランド名として名乗った雪印の母体となる。戦後、雪印が株式会社として発足すると相談役に就任した。 1941年、北海道興農公社設立時に社長に就任。1942年、衆議院議員となるが戦後は公職追放となり、いったん政界を去る。公職追放解除後、北海道知事選に出馬するが落選し、以後政界を引退した。 1933年に設置された酪農義塾第2代理事長。酪農義塾を母体に、1950年、酪農学園大学短期大学部が創設されると、酪農学園初代理事長、初代学園長などになった。晩年は田中正造全集の編纂にも携わった。黒澤の言葉の「健土健民」は、田中正造の思想を黒澤なりにまとめたものだという。この言葉は酪農学園の建学の精神に含まれるほか、雪印の創業の精神にもなっている。 その他北海タイムス会長、北海道開発庁の諮問機関の北海道開発審議会議長、札幌テレビ非常勤取締役(1958.3.31-1982.2.6)も歴任。 1981年、勲一等瑞宝章を受章。 1982年2月6日死去する。 親族では、兄弟に黒澤亮助(酪農学園大学・酪農学園短期大学の元副学長)や、子息に黒澤力太郎(酪農学園大学元教授・学校法人酪農学園元学園長)がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒澤酉蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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