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黒河内 兼規(くろこうち かねのり、享和3年(1803年) - 慶応4年8月23日(1868年10月8日))は、幕末の武士(会津藩士)。旧姓は羽入、諱は初めは義信、のちに兼規。通称は伝五郎で、黒河内伝五郎の名前でも知られる。 == 経歴 == 享和3年(1803年)、会津藩御側医師・羽入義英の次男として生まれた。 黒河内治助兼博に神夢想無楽流の居合術を学び、その養子となって伝五郎兼規と名乗り、指南役となって藩士の指導にあたった。 居合術以外に、稲上心妙流柔術、白井流手棒手裏剣術、穴沢流の薙刀術、双水執流腰之廻り、吹き針など武芸全般にわたる達人として聞こえていた。中でも手裏剣と吹き針の術は古今に例のない程の名人であったという〔子母澤寛 『続ふところ手帖』93ページ〕。他方、和歌もよくし、これは若い頃より同藩の野矢常方について学んでいた〔『続ふところ手帖』95ページ〕 嘉永5年(1852年)、吉田松陰が会津を訪れた際には、日新館を案内している。 晩年は眼病を患い失明し、慶応4年8月23日(1868年10月8日)、新政府軍が若松城下に迫ると、藩の足手まといになるのを厭い、北越で戦い、重傷を負って床に付していた次男・百次郎を盲目ながらも介錯したのち、自らも自刃した。享年65。 長男・百太郎も二番砲隊として奮戦したが、翌日戦死している。 墓所は、福島県会津若松市七日町の阿弥陀寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒河内兼規」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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