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黒澤 明(くろさわ あきら、新字体:黒沢、明治43年(1910年)3月23日 - 平成10年(1998年)9月6日)は、日本の映画監督、脚本家、映画製作者。妻は元女優の矢口陽子。 映画史の中で最も重要かつ影響力のある映画監督の一人であり、ダイナミックな映像表現とヒューマニズムに徹した作風で、『羅生門』『生きる』『七人の侍』など30本の監督作品を生み出した。小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男らと共に世界的にその名が知られており、作品もアカデミー賞と世界三大映画祭(ヴェネツィア、カンヌ、ベルリン)で受賞され、多大な評価を得ている。また、北野武、スティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラなどの映画人にも大きな影響を与えており、日本では「世界のクロサワ」と呼ばれた。 映画監督として初めて文化勲章受章、文化功労者顕彰、東京都名誉都民選出、贈従三位(没時叙位)、贈国民栄誉賞(没後追贈)。1990年に日本人初のアカデミー名誉賞を受賞。1999年には米週刊誌『タイム』アジア版の「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選出されている。米国映画芸術科学アカデミー会員。日本大学芸術学部映画学科中退。 ==経歴== ===生い立ち=== 1910年(明治43年)、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)の荏原中学校(現日体荏原高等学校)職員社宅に〔都築政昭『黒澤明 全作品と全生涯』第一章「黒澤明・人と映画」〕、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれる〔自伝『蝦蟇の油』〕〔『複眼の映像 私と黒澤明』によると著者の橋本忍は黒澤の年譜に於いて「黒澤は東京府荏原郡(東京都品川区)生まれ」と記述してあることに言及し、橋本たちシナリオライター仲間には「生まれたのは明確に秋田で、小さい時に東京へ来たと告げている」と記している〕。父・勇の生家は秋田県中仙町(現在の大仙市中仙町豊川)の士族の家で、先祖は安倍貞任の三男・黒澤尻三郎である〔自伝『蝦蟇の油』〕〔『黒澤明 全作品と全生涯』によると、黒澤尻三郎の末裔は代々神職をしており、幕末から明治維新の頃までは村の重職を務めていた。戊辰の役で官軍に味方し、その功績で帯刀を許されて士族になったという〕。勇は陸軍戸山学校の第一期体操学生から同校の体操教官となり、その後日本体育会(現在の日本体育大学)の理事となって、併設された荏原中学校の要職も歴任した。 1916年(大正5年)、森村学園附属幼稚園に入園。この頃、映画を観ることは「教育上好ましい」と語る父に連れられて、よく映画見物に出かけていた。黒澤は、〔ウィリアム・S・ハート(1863年 - 1946年)は、サイレント期の西部劇のトップスターで、二挺拳銃をトレードマークに人気を得た〕主演の西部劇や連続活劇など、洋画をよく観ていたという〔。翌1917年(大正6年)、同学園尋常小学校に入学。 1918年(大正7年)、勇が不正経理を追及され、理事の職を解かれた。そのため、大井町から小石川区西江戸川町(現在の文京区水道一丁目)の借家に移り、黒田尋常小学校(文京区立第五中学校の前身)に転学した。 小学校低学年の頃、気の弱かった黒澤は、泣き虫でいじめられっ子だった。3年生の時、図画の時間に描いた絵が個性的であるために他の生徒に笑われる中、担任だった立川精治はこの絵を褒めるということがあった〔黒澤 明 - 高松宮殿下記念世界文化賞 〕。すると、それ以来絵を描くことが好きになり、同時に学校の成績も伸び、やがて級長にもなった〔。後に黒澤は、立川を「生涯の恩師」と語っている〔。さらに実兄の丙午(須田貞明)〔実兄の丙午は、須田貞明の名で活動弁士となり、やがて浅草大勝館の主任弁士を務めるなど、若手弁士として人気を得たが、映画のトーキー化で弁士の解雇が行われ、争議委員長としてストを行ったが、1933年(昭和8年)に伊豆湯ヶ島温泉の落合楼にて愛人と心中した〕から厳しい指導を受けたことや、終生の友となる級友の植草圭之助に出会ったこと〔黒澤と植草は、『素晴らしき日曜日』と『酔いどれ天使』の二作で脚本を共作している〕、父のに言われ剣道を始めたことなどで、心身ともに逞しくなり、卒業式では総代として答辞を呼んだ〔。 卒業後、東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)を受験するも失敗〔堀川弘通『評伝黒澤明』p.18〕し、京華中学校に入学。在学中に同舟舎洋画研究所に通う〔。中学時代からドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなどのロシア文学を読み耽ったことで、人生観、倫理観の形成に多大な影響を受けた。また、学友会誌に作文「蓮華の舞踏」と「或る手紙」を載せ、国語教師の小倉要逸に「創立以来の名文」と絶賛された。 1927年(昭和2年)、中学を卒業した黒澤は、画家になることを志し、美術学校(現・東京藝術大学美術学部)を受験するが失敗した。しかし、画家の道を諦めきれず、川端画学校に通って洋画を勉強。1928年(昭和3年)、二科展に「静物」が入選。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入る。1929年(昭和4年)、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、洋画家・岡本唐貴(白土三平の実父)に絵を教わる。当時黒澤は、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチなど、ルネッサンス美術の絵画や彫刻に心酔していたという。日本大学芸術学部映画学科に入学するが中退したという資料もある。 同年12月、第2回プロレタリア美術大展覧会に「建築場に於ける集会」「帝国主義反対」「農民習作」「農民組合へ」「労働組合へ」の5つの政治色の強い作品を出品した。1930年(昭和5年)に徴兵検査を受けるが、父が有力な軍人であったことや、兄が騎兵時代に負傷したこともあってか免除されている。この頃から、一時期だけ非合法な政治活動に参加し、街頭連絡員として地下に潜っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒澤明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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