翻訳と辞書
Words near each other
・ 黒田アキ
・ 黒田アキヒロ
・ 黒田アーサー
・ 黒田エイミ
・ 黒田エミ
・ 黒田クロ
・ 黒田ダム
・ 黒田チカ
・ 黒田バズーカ
・ 黒田一博
黒田一成
・ 黒田一義
・ 黒田一葦
・ 黒田一貫
・ 黒田一郎
・ 黒田万結花
・ 黒田三左衛門
・ 黒田三郎
・ 黒田久孝
・ 黒田之勝


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

黒田一成 : ミニ英和和英辞書
黒田一成[くろだ かずしげ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くろ]
 【名詞】 1. (1) black 2. (2) dark 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [いち]
  1. (num) one 

黒田一成 : ウィキペディア日本語版
黒田一成[くろだ かずしげ]

黒田 一成(くろだ かずしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将黒田氏の家臣。黒田二十四騎黒田八虎の一人。三奈木黒田家の初代当主。
== 生涯 ==
元亀2年(1571年)、荒木村重の家臣・加藤重徳の次男として摂津国伊丹(現兵庫県伊丹市)に生まれる。
石山合戦の時、織田信長に反抗した村重の説得の為に黒田孝高(当時は小寺孝隆)が村重居城の有岡城へ向かったが、捕えられ牢獄に入れられた。この時、重徳が色々と世話をしてくれたので孝高はその恩に報いるため、有岡城の戦いで村重が敗れて没落した後に一成を自分の養子として迎えている。一成は孝高の子・長政の弟のように育てられたという。
天正12年(1584年)の和泉国での根来衆雑賀衆の一揆との岸和田の戦いが初陣。その後、四国征伐九州平定にも出陣、耳川の戦いでは首を2つ討ち取り知名度をあげる。豊前国入国時は80石程度だったが、天正18年(1590年)に2,488石に加増され、後に2,000石を追加されて5,000石程まで増えた。城井氏攻めの敗走の際、長政の影武者になることを志願した。
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では長政の先鋒隊をつとめ、金海城に一番乗りをし、晋州城の戦い、白川、西生浦での籠城、稷山の戦いなどでも活躍した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも武功を挙げる。関ヶ原の戦いの前哨戦に当たる木曽川・合渡川の戦いでも敵の首を挙げ、関ヶ原の本戦でも石田三成の重臣の蒲生将監(安藤直重)の首を挙げた。このような黒田隊の戦功により、長政は徳川家康から一番の功労者として筑前国福岡藩)に52万3,000石を与えられた。
筑前入国後、三奈木(現福岡県朝倉市)に居館を構え、1万6,205石を領した。三奈木に構えたため、三奈木黒田家と称される。馬印は白の御幣である。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、黒田忠之に従って出陣し、大坂城の外堀の埋め立てを行って帰国。寛永14年(1637年)の島原の乱では江戸幕府軍の総大将・松平信綱の軍議に参加する。藩士達は黒田忠之の指揮に従わず一成に従ったとされる。その後、隠居して睡鴎と号した。
明暦2年(1656年)11月13日、86歳で死去。法名:睡鴎斎休江宗印居士。墓は福岡市博多区崇福寺と朝倉市三奈木の清岩寺(清岩禅寺)にある。一成の家系は代々福岡藩の大老職を世襲する別格的存在となり、明治に至るまで黒田家の筆頭重臣家として存続し、明治時代に黒田一義男爵となり華族に列した(→福岡藩#大老を参照)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「黒田一成」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.