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黒田 光之(くろだ みつゆき)は、筑前福岡藩の第3代藩主。 ==生涯== 寛永5年(1628年)5月16日、第2代藩主・黒田忠之の長男として筑前早良郡橋本村の別邸にて生まれた。なぜこのようなところに生まれたかといえば、父の忠之が側室で生母の坪坂氏を嫌って、筆頭家老の黒田一貫のもとに預けていたからである。承応3年(1654年)、父の死去により家督を継いだ。すでに福岡藩の財政は忠之末期から窮乏化が始まっていたため、光之は厳しい倹約令を出して藩政改革に取り組んだ。光之は武断よりも文治を好み、父忠之に仕えていた儒学者、貝原益軒を再び召抱え、黒田家の伝承を集めた『黒田家譜』などを編纂させている。それまでの保守的な重臣を遠ざけて新参の鎌田昌勝や博多南坊流を創始した立花重根を家老として新たに登用した。 しかし後継ぎにおいて延宝5年(1677年)2月、嫡男・綱之を廃嫡して東蓮寺藩を継いでいた三男・長寛(綱政)を後継ぎと新たに定めたが、これが原因で家老が処分されるなど、藩内に大きな混乱をもたらす羽目となった。なお、この間天和2年(1682年)には朝鮮通信使の接待を担当している。元禄元年(1688年)12月9日、綱政に家督を譲ったが、晩年にはその綱政とも対立している。宝永4年(1707年)5月20日、福岡にて死去。享年80。法号は江竜院淳山宗真。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒田光之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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