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黒田 利高(くろだ としたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。黒田氏の家臣。黒田二十四騎、黒田八虎の筆頭。 == 生涯 == 天文23年(1554年)、黒田職隆の次男として播磨国姫路城で誕生した。同母兄に孝高(官兵衛・如水)がいる。 天正5年(1577年)、織田信長による中国攻めが開始されると、兄・孝高と共に羽柴秀吉の配下として参加し、秀吉の馬廻となった。天正6年(1578年)から天正8年(1580年)の三木合戦、その後の英賀城攻めにも従軍し、町坪城の城代となった。天正10年(1582年)の信長死後は秀吉に仕え、備中高松城の戦い・山崎の戦いでも秀吉に従っている。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い時には、甥の黒田長政らと共に和泉国で一揆の鎮圧に当たっている。 天正14年(1586年)から天正15年(1587年)の九州征伐にも参加した。この頃、兄・孝高の勧めにより周防国山口でキリシタンの洗礼を受けた。その後、兄・孝高が戦後の九州国分によって豊前国6郡があたえられ、豊前中津城主となったため、兄から1万石を分与されて豊前高森城主となった。 兄が隠居すると、その家督を継いだ甥の黒田長政の後見役を務めた。文禄元年(1592年)からは文禄の役にも大組頭として参加したが、一度講和状態となった文禄5年(1596年)に帰国。その後体調を崩して和泉国堺で療養中に死去した。享年43。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒田利高」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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