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黒田 寛一(くろだ かんいち(「ひろかず」とも)、1927年10月20日 - 2006年6月26日 )は、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)最高指導者。通称クロカン。筆名は山本勝彦、牧野勝彦など。いわゆる「反帝国主義・反スターリン主義」を定式化し、提唱した。 == 経歴・人物 == 東京都府中市出身。実家は府中市の有力な地主で、府中のけやき並木と甲州街道のちょうど角に立派な邸宅を構えていた。曾祖父・尚雄(なおたけ・1847年=弘化4年生まれ)は三多摩自由党などで活動した自由民権運動家、祖父・尚寛(なおひろ・1869年=明治2年生まれ)は東京帝国大学医学部から東大病院勤務を経て黒田医院を開業した(現在は閉院)。父・要(かなめ・1903年=明治36年生まれ)も医師の傍ら、府中市議会議員を歴任し議長も務めた〔出典は、別冊宝島編集部編『ニッポンの「黒幕」』宝島社<宝島SUGOI文庫>、2008年、ISBN 978-4-7966-6380-9のP.166〕。 旧制東京高等学校では理科乙類(ドイツ語の医学部進学課程)と蹴球(サッカー)部に属し、網野善彦、城塚登、氏家斉一郎とは仲間だった。肝臓病と皮膚結核にかかったため、東京高校を中退し、自宅で勉強した〔出典は、別冊宝島編集部編『ニッポンの「黒幕」』宝島社<宝島SUGOI文庫>、2008年、ISBN 978-4-7966-6380-9のP.166〕。その後、結核が目に及び、視力が極度に悪くなった〔出典は、別冊宝島編集部編『ニッポンの「黒幕」』宝島社<宝島SUGOI文庫>、2008年、ISBN 978-4-7966-6380-9のP.166〕。東京高校の中退後、出版社の「こぶし書房」を自営。その傍らマルクス主義の研究・著作を重ね、その研究サークルである「弁証法研究会」(ミニコミ誌『探究』)を発展させる形で太田龍らとともに日本トロツキスト連盟を結成。太田派の離脱という、いわゆる「第一次革共同分裂」によって黒田は1957年12月、革命的共産主義者同盟(革共同)の議長に就任。しかし、1959年初頭に黒田自らが日本民主青年同盟の情報を警視庁に売ろうとして未遂に終わっていたことが発覚(黒田・大川スパイ問題)。同年8月の革共同第一回大会で「スパイ行為という階級的裏切り」として除名された。このとき、黒田とともに「革命的マルクス主義グループ」(RMG)の実務を担っていた本多延嘉は、一貫して黒田を弁護した。本多は除名された黒田の後を追って革共同を離党し、黒田とともに革命的共産主義者同盟全国委員会(後に中核派と革マル派に分裂する)を結成した(いわゆる「革共同第二次分裂」)。 1962年の第6回参議院議員通常選挙全国区に党公認で出馬するが、落選。得票数は2万余りに過ぎず、大日本愛国党総裁の赤尾敏が12万票余りを獲得したのと比べれば惨敗であった。これを受けて6月に、「黒寛教祖を仰ぐ狂信的宗教団体マル学同の暴挙を許すな」という共同声明が清水幾太郎、香山健一、森田実、吉本隆明など数10名によって提出。 更に情勢認識や党建設方針をめぐって本多派と対立を深め、1963年2月に革共同全国委員会は本多らの「全国委員会」と黒田が率いる日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)に分裂する(いわゆる「革共同第三次分裂」。つまり革命的共産主義者同盟は第四インター・中核派・革マル派の3派があることになる)。黒田は1996年10月に健康上の問題を理由に議長を辞任するものの、死去するまで革マル派の最高指導者であり続けた。 2006年6月26日、埼玉県春日部市の病院にて肝不全のため死去。享年78。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒田寛一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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