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黒田 治高(くろだ はるたか)は、筑前国福岡藩の第8代藩主。 讃岐国多度津藩主・京極高慶の七男。母は高慶の側室で林代右衛門の娘・誓寿院。官位は従四位下侍従、筑前守。幼名は又八。初名は京極高幸(きょうごく たかゆき)。黒田氏では「高」の字が通字として用いているので、黒田氏に養子入りしてからも一ヶ月ほどは改名せずに同じ諱で黒田高幸(くろだ たかゆき)と名乗っていた。その後に治高と改名する。 宝暦4年(1754年)5月28日、丸亀城にて生まれた。天明元年(1781年)2月2日、福岡藩主・黒田治之の末期養子として家督を相続した。治之には子女が早世し居なかった為、黒田氏と同じく先祖を宇多源氏佐々木流を称する同族京極氏から迎えたという。黒田家では治高を三代光之の娘、筑姫の子孫として養子を貰い受けたというが、京極家の記録では実際には血は受け継いでいない。同年2月18日、将軍徳川家治に御目見した。同年3月7日、従四位下侍従・筑前守に叙任し、養父・治之と同じく家治より偏諱を受けて治高と改名。同年3月15日、初めてのお国入りの許可を得る。同年5月、領地福岡に入ったが同年8月21日、福岡城において死去した。29歳。なお、幕府には10月24日死亡と届けた。後嗣は生前に仮養子として指名していた一橋徳川家当主・徳川治済(養父・黒田治之の兄)の三男・雅之助(黒田斉隆)を末期養子に迎え、一代限りの京極家からの藩主であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒田治高」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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