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黒田 眞(くろだ まこと 黒田真、1932年10月1日 - )は、日本の通産官僚。通商産業審議官などを歴任。 == 来歴 == 東京都出身。東京都立小山台高等学校を経て、1955年に東京大学法学部卒業、同年、通商産業省入省。ジュネーブ代表部一等書記官、通商政策局国際経済課長、通商政策局長など通商畑を歩む。 1980年代半ばから半導体をめぐり激化した日米貿易摩擦における日本側当事者の一人。当時の交渉過程で米国側から「タフ・ネゴシエーター」の異名を付けられたことで知られている〔アメリカ側は必要とあらば、CIAからFBIまで動員し、盗聴も含めて日本側の担当官僚から担当大臣、そして首相までのプライバシーを徹底的に調べ上げるが、少なからぬ日本の政治家がカネや女の問題などで屈してしまうケースが多かった。そのため担当官僚の間では「大臣に上げるな、官邸に上げるな」が合い言葉となっていた。また、交渉担当者の自宅の電話番号まで盗聴されていたと歴代の担当官僚たちが証言した。アメリカは戦いに勝つ為には何でもやってのける国である・・・という。(田原総一朗『日本の戦後 下』 講談社,2005年 P202)〕。 通産審議官在任中の1987年4月17日、日米半導体協定交渉の最終段階における「対日措置」発動の際の、日本側責任者の一人であった。同年3月27日、レーガン政権下の閣僚レベルの経済政策委員会(EPC)において「対日措置」が発動されたが〔日米半導体協定において、米国側の、通産省の強力な権限の下でも日本側では協定の目的が達成されていない、ひいては協定が守られていないとの主張に対して、通産省は1960年代から70年代はじめまでには、資本の自由化も含めて、強力な統制権限はすべて放棄し、通産省はむしろ努力して産業との良好な関係を維持しようとしてきた (※注 行政指導も参照) と述べている。本人著『日米関係の考え方 貿易摩擦を生きて』 有斐閣 1989年、P63~65参照〕、その前日の3月26日、ワシントン・ポスト紙上において、「スミス米国通商代表部次席代表、マクミン国務次官補らとの昼食会の席上〔他に日本側出席者には、北村汎外務審議官、渡辺幸治外務省経済局長、田中均外務省北米二課長がいた。〕、米国がいかに日本政府関係機関にスーパーコンピュータを売り込もうとしても時間の無駄で、それは品質とか価格とは関係ないと言明した」と報じられた。また中曽根康弘首相がワシントン入りした同年4月28日付け同紙では、上記席上での発言を引き合いに、日本がコンピューター市場の支配を狙っているとの「国務省機密報告」なる「リーク文」が掲載され、あわせて「系列」など日本市場の透明性に関して、社会的・経済的に市場の原理が働かない「異質な」仕組みに批判が向けられることとなった〔この米国の強硬な態度は、1985年9月以降、米国政府が、それまでの国際経済政策に大幅な修正を加え、ドル高からドル安へ指向し、通商貿易面では、貿易相手国が実施している「不公正」な行為に対して断固たる強い措置をとることを明らかにしたことにあると黒田は述べている。 『日米関係の考え方』P7より引用〕。 当時の対日強硬論の急先鋒であった米国議会をはじめ、「目立つナンバーツー」であった日本に対する苛立ちの表れが、ナショナリスティックな「日本封じ込め論」として、当時米メディアで「日本が約束した協定に違反することはあり得ない」と言明していた「クロダ」に対する狙い撃ちであったことも、自著で述べている〔『日米関係の考え方』P7~21〕。 まもなく、このワシントン・ポスト紙のスチュアート・オア・バッハ記者が報じたような“暴言記録”は、この国務省機密報告文書には記載されていなかったことが判明した。同年4月17日には日本製の3品目にアメリカが協定違反として100%の関税を課し、それからおよそ一ヶ月後の同年5月23日、同紙に黒田の反論文が掲載されることとなったが、半導体交渉に何らの影響力も無くなった後だった〔田原『日本の戦後 下』 P204〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒田眞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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