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黒田 職隆(くろだ もとたか)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。黒田重隆の子。子に黒田孝高(官兵衛・如水)〔「荘厳寺本黒田家略系図」によると実際は養父にあたるという。ただし同系図の信憑性については他史料との乖離が大きいため、否定する意見もある。〕などがいる。 == 生涯 == 大永4年(1524年)、黒田重隆の子として備前の福岡(現在の岡山県瀬戸内市)にて生まれたと伝わる〔『黒田家譜』『備前軍記』〕。初名は満隆(みつたか)〔『寛政重修諸家譜』〕。妻は小寺氏の養女で明石正風の娘、後妻または側室として母里氏〔、神吉氏がいた。 播磨国御着城主の小寺政職に仕え、天文12年(1543年)には政職の敵であった香山重道を討ち取った。それらの功績から天文14年(1545年)、政職の養女を娶って家老に列せられると共に、小寺の姓氏と偏諱(「職」の1字)を与えられて小寺職隆と名乗り(異説あり)、播磨姫路城の城代になった。職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた〔『週刊 日本の城14号』(デアゴスティーニ)〕。 永禄7年(1564年)には、浦上政宗の子・浦上清宗と自分の娘〔の婚姻を実現させたが、その宴席中に父・重隆のかつての主である赤松政秀の奇襲で浦上親子が殺害され、職隆は政秀と対立したといわれている。永禄10年(1567年)頃、子の孝高(官兵衛・如水)に家督を譲り、姫路城の南東に位置する国府山城(こうやまじょう)〔別名は妻鹿城・甲山城・功山城・袴垂城ともいう。〕に隠居した。 永禄12年(1569年)、かねてより対立していた赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正と別所安治の支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んで来た際、迎撃に出るも実弟の井手友氏などを失い危機に陥っていた子・孝高救援のために自身も出馬して勝利に貢献した(青山・土器山の戦い)。 その後、主君の小寺政職は織田氏に与するが、天正6年(1578年)に摂津有岡城主・荒木村重の織田氏に対する謀反に政職も呼応する向きを見せた。孝高は村重を説得するために有岡城に乗り込んだが失敗し、捕縛され牢に入れられた。孝高が幽閉され音信不通になってしまった事で黒田氏は当主不在となったが、この時、孝高の重臣7名が連署で主が不在の間は職隆の命に従う事を誓った書状を職隆に宛てて送っている〔『黒田家文書』〕。こうした要請に応じて職隆は孝高が救出されるまでの間、黒田家当主の座に復帰し、織田氏から離反した小寺氏には与さず織田氏に変わらず味方する姿勢を示した。天正8年(1580年)、荒木村重の謀反鎮圧に伴い小寺政職が逃亡すると、その子・氏職を密かに引き取って養育していたという。その清廉で忠義一徹なところを羽柴秀吉にも賞賛され、後に姫路城の留守居を任された。 天正13年(1585年)8月22日、62歳で死去した。のち、第9代福岡藩主・黒田斉隆治世の時、墓所の発見が姫路の心光寺の僧・入誉上人より福岡藩黒田家に言上され、新たに玉垣を廻らし墓所が築造された〔「寛政重修諸家譜」黒田家系図より。〕。墓所は地元の人々によって代々守られ、「ちくぜんさん」の愛称で呼ばれる。現在は姫路市指定文化財の史跡『黒田職隆廟所』になっている〔姫路市・黒田職隆廟所 〕。 また、福岡市の光雲神社の摂社、堅盤神社に四神の一神として奉じられ祀られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒田職隆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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