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黒田 記代(くろだ きよ、1916年2月17日 - 没年不詳)は、日本の女優である〔''黒田記代''、''jlogos.com'', エア、2013年2月15日閲覧。〕〔''黒田記代''、日本映画データベース、2013年2月15日閲覧。〕〔''黒田記代''、日本映画情報システム、文化庁、2013年2月15日閲覧。〕〔''黒田記代''、KINENOTE, 2013年2月15日閲覧。〕〔''黒田記代''、日活データベース、2013年2月15日閲覧。〕〔''黒田記代''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月15日閲覧。〕。本名富田 千代(とみた ちよ)〔〔。1930年代の松竹蒲田撮影所で「蒲田ラッキー・セブン」のひとりとして売り出されたが、むしろその後の日活多摩川撮影所、新興キネマ東京撮影所の現代劇の主演女優として知られる〔。 == 人物・来歴 == 1916年(大正5年)2月17日、北海道札幌市に生まれる〔『日本映画人名事典・女優編・上巻』〕。姉はのちに俳優の大邦一公と結婚している〔キネマ旬報社, p.97-98.〕。 地元・札幌の某女学校を中途退学し、東京に移る〔。1934年(昭和9年)早々に松竹蒲田撮影所に入社、同年3月8日に公開された清水宏監督のサウンド版『恋を知りそめ申し候』で、主役の藤井貢の相手役に抜擢されて、満19歳で映画界にデビューした〔〔〔。同年、松竹キネマは、前後して入社した御影公子、忍節子、久原良子、小池政江、水島光代、高杉早苗とともに「蒲田ラッキー・セブン」として、黒田を売り出す〔〔文藝春秋, p.173.〕〔ドウゾよろしく 新進名花の御挨拶 、横浜都市発展記念館、2013年2月15日閲覧。〕。しかし同年秋には、日活多摩川撮影所(のちの大映東京撮影所、現在の角川大映撮影所)に移籍、同年11月1日に公開された田口哲監督のサイレント映画『芸者三代記 大正篇』に主演した〔〔〔。近代的な容貌で注目され、『人生劇場・青春編』(監督内田吐夢、1936年)、『情熱の詩人琢木』(監督熊谷久虎、1936年)、『蒼氓』(同、1937年)などの文芸映画で主演を務める〔。ときに日活京都撮影所に貸し出され、『忠臣蔵 地の巻』『忠臣蔵 天の巻』(監督池田富保・マキノ正博、1938年)の浮橋太夫役等、時代劇にも出演した〔〔〔。 1939年(昭和14年)には、東京府板橋区東大泉町(現在の東京都練馬区東大泉)の新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)に移籍した〔〔〔。1942年(昭和17年)1月10日の戦時統合による新興キネマの合併、大映設立に際しては、同社に継続入社し、新興キネマ東京撮影所改め「大映東京第一撮影所」に所属した〔〔〔。同撮影所はやがて閉鎖されたため、東京府北多摩郡調布町大字布田小島分(現在の東京都調布市多摩川6-1-1)の大映東京撮影所に異動したが、1943年(昭和18年)7月29日に公開された『我が家の風』(監督田中重雄)に出演した後に〔〔、満28歳で同社を退社した〔。 退社後は、舞台での演劇実演に転向し、加賀邦男の「新文藝座」に参加した〔国立劇場, p.98, 151, 159, 190.〕。同年11月、京都座で『人妻椿』に出演、翌1944年(昭和19年)7月には花月劇場で明朗劇『素晴しい戦果』に加賀や小林十九二らと出演、翌8月にも同劇場で『新らしき産声』に江川宇礼雄や加賀、小林らと出演、翌1945年(昭和20年)1月にも同劇場で現代劇『求婚合戦』に新田実、加賀、小林とともに出演したという記録が残っている〔。 第二次世界大戦の終結後は、1946年(昭和21年)1月10日に公開された田中重雄監督の『幾山河』〔〔、満39歳となった1954年(昭和29年)9月17日に公開された、中川順夫監督の『見ないで頂戴お月さま』〔に出演した記録が残っている。以降の消息は不明であり、没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒田記代」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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