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黒田 長成(くろだ ながしげ、慶応3年5月5日(1867年6月7日) - 昭和14年(1939年)8月14日)は、日本の政治家で侯爵。号は桜谷。父は筑前福岡藩の最後の藩主黒田長知である。妻は公爵島津忠義の娘、清子。後嗣は嫡男・黒田長礼。黒田長政から数えて福岡黒田家13代目の当主である。位階は従一位、勲等勲章は勲一等旭日桐花大綬章。 == 経歴 == 筑前国(現・福岡県)出身。1867年6月7日(慶応3年5月5日)、第12代福岡藩主黒田長知の長男として生まれた。1878年(明治11年)12月28日、父長知の隠居により、12歳で黒田家家督を相続した。 明治維新後、公卿・大名はすべて東京で生活するよう命じられており、長成も東京赤坂の黒田本邸に移り住んだ。1878年(明治11年)に慶應義塾へ入学。慶應義塾夜間法律科教授・金子堅太郎の助言により1880年(明治13年)に慶應義塾を中退し、英国ケンブリッジ大学への留学準備を始める〔高瀬暢彦「金子堅太郎 自叙伝(3)」(日本大学精神文化研究所紀要29、1998年3月、史料紹介、136~138頁)。旧藩主黒田長知からの長成の修学の途についての相談に対し、金子はつぎのように助言した。「長成君は大藩華族の当主なれば、将来、英国に赴き、彼国の貴族の修学する大学に入学し、一箇の専門学を修業し、且つ英国の貴族に則り、その人格を修養せらるること緊要なり。もし此儀御採用あるべしとならば、慶應義塾を去り、大学予備門に通学し、外人教師につきて英語は勿論、その他の学科をも修め、予備門卒業の後は直ちに英国に留学せられんことを希望す。何となれば、慶應義塾は普通中学の程度にして、専門の学科を教授することなく、また、その英語は日本人が変則の英語を以て教ゆるが故に、その発音読方等は不完全にして、渡英後に純粋の英語を学ぶのに、却て障害となるべければなり」。〕。1884年に侯爵を授けられる。1885年(明治18年)、学友・添田壽一を随えてケンブリッジ大学キングス・カレッジに入学し、1887年12月学士号(普通学位)を取得し、卒業した。 1889年、宮内省の式部官に任じられるが翌1890年に依願免官。1892年には満25歳に達したために貴族院議員となり(侯爵議員)、かつての福岡藩の藩校で旧制中学として再興された修猷館の第3代館長となる。1894年から1924年までの約30年間、貴族院副議長を務めた。1905年、副島種臣死去の後を継けて、東邦協会の会頭となった。1908年12月11日、麝香間祗候となる〔『官報』第7640号、明治41年12月12日。〕。1924年に枢密顧問官、議定官に任じられ、以後終生その官にあった。1939年に薨去。墓所は、東京都港区南青山の青山霊園。毎年、8月14日の命日には小田原市にある旧黒田家別邸清閑亭にて、長成侯爵を偲ぶ桜谷忌が催されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒田長成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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