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黒龍会(こくりゅうかい)は1901年(明治34年)1月に設立された国家主義(右翼)団体である。中国・満州・ロシア国境を流れる黒龍江に名前が由来する〔春になると川原一面にきれいな花が咲き乱れる。その、のどかで平和な美しい光景をシベリア横断を成し遂げた内田良平が見て感動し、東亜の理想はこの光景にあると大悟し、欧米列強諸国によって殖民併呑されたアジアを復興し、まるで極楽を思わせるかの様な、春の美しい黒龍江のようなアジアを建設することをライフワークとして誓った。その復興アジアへの内田良平の誓いこそが、黒龍会の名前の由来である。〕。対露開戦を主張〔内田良平は、単身シベリアを横断してロシア革命を予測して、「ロシア帝国恐れるに足りず」として『露西亜亡国論』を著わし、ロシア革命に同情したが、治安を乱すという当局の理由によって即日発禁処分となる。 :日露戦争では満州義軍を組織して後方攪乱に回ったり、コサック兵と戦ったりした。〕。玄洋社の海外工作センターといわれた。海外では日本の壮士集団、BLACK DRAGON SOCIETYとして恐れられていた〔堀幸雄 『最新 右翼辞典』 柏書房 2006年11月 P 227-228〕。1931年に大日本生産党を結成。1946年、GHQ当局によって、最も危険な影響力のある国家主義団体として解散させられた。 ==創設== 日清戦争後の三国干渉に憤慨した玄洋社の一部が大陸での活動をするために、1901年、平岡浩太郎〔玄洋社創立者の1人で玄洋社初代社主〕の甥に当たる内田良平〔内田良平の父である内田良五郎は筑前勤皇党の志士であり、良平の叔父の平岡浩太郎は西南の役に従軍、後に頭山満と共に玄洋社を創立し、帝国議会開設後は衆議院議員を務めた。また自らが経営する筑豊炭鉱で得た巨額の資金を革命資金として孫文を支援、またアジア各国の独立運動や、郷土の後輩や青年の育英にも惜しみなくその財を注ぎ込んだ。〕を中心として葛生修吉らが設立した。他に平山周〔後の中華民国軍総司令部顧問〕、葛生能久〔最後の黒龍会主幹で昭和右翼の重鎮〕がいた。玄洋社の頭山満が顧問となった。東京神田の錦輝館で行われた発会式には先の葛生、平山の他、伊東正基、吉倉汪聖、佃時夫、大原義剛、権藤震二らが参加した〔結成には武田範之、鈴木天眼、清藤幸七郎ら、および、東学党の乱支援のために天佑侠を結成して朝鮮半島に渡った人々も深く係わった。〕。事務所は芝区西久保巴町の内田の自宅。賛助員として平岡の他には犬養毅、鳩山和夫、頭山満、大井憲太郎、神鞭知常、河野広中、中江兆民がいる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒龍会」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Black Dragon Society 」があります。 スポンサード リンク
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