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陣幕 久五郎(じんまく きゅうごろう、1829年6月4日(文政12年5月3日) - 1903年(明治36年)10月21日)は、出雲国意宇郡意東村(現・島根県松江市東出雲町下意東)出身の元大相撲力士。第12代横綱。本名は石倉 槇太郎(いしくら しんたろう)。 == 来歴 == 1829年6月4日(文政12年5月3日)に、出雲国意宇郡意東村で農家を営む家に生まれる。14歳だったある日、兄と友人の3人で小舟に乗って海釣りを楽しんでいると、昇った月が3個に分割してその間に3個の星が出ているのが見え、左から右へ旋回する様子が15分ほど見られた。3人の中で自分だけが見えたため、愼太郎は以前から好きだった相撲で名を挙げなければならないと決心して力士を志した。1847年のある日、大坂相撲の巡業へ飛び入り参加して自信を持ち、尾道の土地相撲へ加入してその力量を認められると同時に、黒縅槙之助と名乗って同郷の力士である初汐久五郎の弟子となった。 1848年に初汐が没すると、巡業に飛び入り参加したことがある大坂相撲に戻り、朝日山四郎右衛門の門人となって1850年11月場所に初土俵を踏む。1858年1月場所で新入幕を果たすと、江戸相撲へ加入して秀ノ山部屋に所属する。当初は徳島藩の抱え力士として出発したが、途中で松江藩の抱え力士となり、1864年10月以降は薩摩藩の抱え力士となった。この所属替えが、後に明治以降における陣幕の活動を助けることとなるが、度重なる所属替えは徳島藩士の陣幕への嫌悪へ繋がってしまい、1867年4月場所7日目の鬼面山谷五郎戦で最高潮に達した。鬼面山は新入幕以来、長期に渡って徳島藩の抱え力士で、陣幕と共に「阿波の四天王」と称されたこともある強豪力士であるが、陣幕は当時、幕末の勢いに乗る薩摩藩抱えだった。土俵脇の砂かぶりでは両藩士が刀の柄に手をかけ、式守伊之助も顔面蒼白になるという一触即発の重々しい雰囲気の中、両者は待った2度、水入り2度の後に引き分けた。水入りの際の場内の大騒ぎは、天地も崩れるほどだったと伝わる。この熱戦から1866年11月場所で大関へ昇進し、1867年正月に五条家から、同年10月に吉田司家から江戸時代で最後となる横綱免許が授与された。しかし、相撲を取ったのは同年11月場所までと非常に短期間で、その後は明治維新の動乱に巻き込まれていく。 1868年1月19日(慶応3年12月25日)、江戸・三田で発生した薩摩藩邸焼討事件の直前に偶然近くを通ると、屯する武士達を見て即座に藩邸への襲撃を予知し、汐留の船宿から早船で本所の自宅に戻り、藩抱えの力士全員を召集した上で、妻と別れの盃を交わすと早船で芝の藩邸に戻った。しかし、藩邸は既に庄内藩士らの手によって焼き討ちされたため、陣幕は川崎の漆田の家まで走って向かい、知人に対して大坂にいる西郷隆盛へ急を知らせる手紙を送るように頼んだ。この手紙は1868年1月26日(慶応4年1月2日)に西郷の元へ届けられ、戊辰戦争では勤王軍の荷駄掛かりや、京都側に上って薩摩藩主・島津忠義の護衛を担当した。 その後は東京相撲を離れ、年寄・陣幕として大阪相撲の頭取総長を務め、大阪相撲を東京相撲と同等にまで引き上げる活躍を見せた。1873年6月6日には大阪造幣寮での天覧相撲において大阪相撲頭取総長として取組を編成したが、陣幕が決めた編成に西郷隆盛が納得せず、強引に大関八陣の対戦相手を務めるように命じられた。当時既に引退から3年が経過していたために勝利することなど出来ず、「行在所日記」には「東方薩摩の陣幕は 大坂の八陣に負けたりければ 流石の西郷も座に耐えずして 蒼惶として拝辞して退きけるとぞ」と書かれている。これが元で1880年9月場所限りで廃業し、実業家へ転身した。 実業家としては、とりわけ相撲関係の建碑事業に奔走し、1900年に竣工した東京・深川の富岡八幡宮の「横綱力士碑」を建てるなど、全国各地に相撲に関する碑を建てた。元勲元老を始めとする政財官界の大物が陣幕の建碑活動に全面的に協力しており、かつて薩摩藩抱えだった経歴を十二分に活用する形となった。1888年5月には、靖国神社での大祭奉納大相撲で横綱土俵入りを奉納したほか、1896年には力士として初の自伝「陣幕久五郎通高事跡」を著した。 晩年は相撲興行中に限って、東両国の日除地の一角で横綱煎餅を販売していたと伝わる。1903年10月21日に死去、。陣幕は遺言通り、生前に作らせた75kgの檜製の棺に横綱を巻き付けて葬られた。陣幕の墓は東京都品川区の光取寺と、広島県尾道市の光明寺にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陣幕久五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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