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龍虎 勢朋(りゅうこ せいほう、1941年1月9日 - 2014年8月29日)は、日本の元大相撲力士、引退後はタレント・コメンテーター・俳優。本名は鈴木 忠清(すずき ただきよ)〔。晩年の芸名は龍虎 孝宗。龍虎名義の場合もある〔『桃太郎侍』第124話「日本一の暴れ熊」(時代劇専門チャンネルでの番組紹介記事) 〕。 東京都大田区出身。東京都立大森高等学校中退。花籠部屋所属。最高位は東小結。現役時代は身長186cm、体重132kg。妻は鈴木貴子、観世流太鼓十六世宗家・観世元信の長女。1992年4月結婚。1992年11月長女、1994年8月、長男誕生〔テレビ東京 レディス4 2007年10月11日〕。 == 来歴 == === 大相撲時代 === 1957年1月場所、花籠部屋から初土俵。自身を含めて同期の新弟子は50人いたが、当初は後に第52代横綱となる北の富士と並んで大変に軽量で最下層の実力しか持たなかったという。〔龍虎さん告別式、北の富士氏「細くてへなちょこだった」 msn産経ニュース 2014.9.6 06:56〕実際に後年その北の富士自らが「50人の新弟子の中で一番弱かったのがオレと龍虎でした」と当時を振り返っている。同年11月場所まで鈴木山の四股名で土俵生活を送り、翌1958年1月から1959年9月まで花武蔵の四股名で土俵に上がった。1959年11月からは若神山を名乗るも、幕下中位から下位で停滞していたことに痺れを切らして1964年11月場所から花武蔵に戻す。1966年5月場所前には師匠の花籠から「漢語由来の四股名を名乗ると出世するよ。双葉山さんや大鵬がいい例だ。」と勧められて龍虎と改名し、以来引退までこの四股名で通す(1969年3月までは下の名前が昇だった)。若乃花には新弟子の頃からかわいがられ、二子山(若乃花)独立の際について行くことを志望しながら師匠の花籠が移籍を認めた力士に含まれていなかったために移籍は認められず残留することになった。1967年3月場所新十両。1968年3月場所新入幕。初土俵より11年かけての幕内昇進は当時の最スロー記録であった。なお、同期の中で幕内に昇進したのは当初最下層の力士とされていた自身と北の富士の2人だけであった。〔龍虎と同じ花籠部屋の若乃洲敏弥は新弟子検査こそ龍虎や北の富士と同期であったが準備不足を理由に初土俵が1場所遅れの1957年3月場所となった。〕 新入幕の場所で11勝4敗の成績を挙げ敢闘賞を獲得。1969年5月場所(前頭2枚目)で大鵬から初金星を挙げ、この場所8勝7敗で殊勲賞を獲得。翌7月場所も東前頭筆頭で8勝7敗の成績を挙げた(この間、3場所連続優勝力士に土をつけるという珍しい記録をつくっている)が新三役に昇進できず、翌9月場所同位置で3勝12敗と大敗したが、その後はほぼ安定した成績を挙げ幕内上位を保持していた。ようやく1970年3月場所新三役(小結)。突っ張りを交えた気風のよい相撲振りと美男力士として人気を博し1970年9月場所、前頭11枚目で自己最高の13勝2敗を挙げた。 しかし、翌1971年11月場所6日目、前頭7枚目義ノ花戦で左アキレス腱を断裂して途中休場、その後1972年1月場所から3場所連続全休で幕下まで落ちた。龍虎のこの時の負傷を受け、日本相撲協会は1972年1月場所より公傷制度を導入することになったが、(2003年11月場所限りで廃止)、龍虎自身には制度が適用されなかったため、世間の同情を集めた。 しかし、本人の不屈の闘志と努力が実を結び、幕下優勝(1972年9月場所、7戦全勝)、十両優勝(1973年3月場所、11勝4敗)と実績を重ね、1973年7月場所に再入幕する。その後も1974年9月場所で新横綱の北の湖から通算2個目の金星を獲得。1975年1月場所で小結となり三役にカムバックした(破門など協会からの離職によるブランクなしで幕下へ降下した元三役の三役復帰は史上初)。 ところが、1975年5月場所初日の前頭4枚目旭國戦で、今度は右アキレス腱を切断(復帰後2度目のアキレス腱断裂、計3度のアキレス腱断裂)して、その場所限りで現役引退。引退後は年寄16代放駒を襲名するも1977年に廃業し、タレントに転向した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「龍虎勢朋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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