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龐勛の乱 ( リダイレクト:ホウクンの乱 ) : ウィキペディア日本語版
ホウクンの乱[ほうくんのらん]

龐勛の乱(ほうくんのらん)とは中国末期の868年7月に武寧藩鎮の軍人である(ホウクン)が起こした反乱。
==驕兵==
晩唐に入ると、各地で将兵の反乱が多発するようになった。これは、各地の藩鎮に派遣された節度使が私腹を肥やすために将兵への給与を大幅に減らし、将兵の不満が爆発したためであった。さらには、将兵が自分たちにとって都合のいい新たな節度使を擁立することもあった。このため、節度使の中には逆に将兵を過剰なまでに優遇して彼らの機嫌を取る者もあった。
徐州を中心に4州を管轄する武寧藩鎮は、札付きの藩鎮として知られていた。これは、徐州地域が交通の要所であることから優遇され、穆宗期に節度副史として武寧に赴任した王智興以来、勇敢の士2000人による7軍のエリート部隊が置かれていたためであった。彼らは王智興以後も様々な特典を有し、後任の節度使たちも彼らのご機嫌取りに終始していた。
862年7月、徐州の驕兵(驕れる兵隊)たちは新任の節度使である温璋を追い出してしまう。これは温璋が厳しい官吏であるという評判があり、話の分かる上司を寄越せという驕兵たちの無言の声明であったが、これが彼らの破滅につながってしまう。温璋の後任として選ばれたのが裘甫の乱を鮮やかに鎮圧した名臣、王式だったからである。
この時、王式は裘甫の乱鎮圧の直後であったため、救援に来ていた忠武藩鎮と義成藩鎮の軍勢を臨時に率いていた。2藩鎮の将兵を慰労して解散させる段となって、王式はついでとばかりに、将兵に「徐州の驕兵どもを皆殺しにしろ」と命令を下した。
予想しえない王式の攻撃により、武寧藩鎮は壊滅した。生き残りの兵たちは匪賊となり、政府は1ヶ月以内に自首すれば罪は問わないという布告を発した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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